05.28.01:21
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06.08.20:39
御来迎
山本武と「彼」の死。
「彼」が誰なのかは皆様の解釈にお任せいたします。
むしろ誰だと思ったのかを逐一聞いてみたいくらいです(やめなさい
…ひねくれた作者ですみません。
彼と、山に登ったことがある。
先にどちらが言い出したのか、今となってはよくわからない。
どちらともなく、行こう、と言い出して、それでああして行くことになったように思える。ほんとうに、今となっては、なのだが。
心中しに行くような気がしてならなかった。
無論、そんなつもりは毛頭なかったのだけれど。
精神的に、何かこう、劇的に変わるような気がしたからかもしれない。今から思い返してみれば確かに、あの日の山本は靴の紐を結び直したりなんだりしながら、そう感じていたのに違いなかった。そう、玄関先でやたらめったら重たい靴の紐をいじくりまわしながら、柄にもないことを考えていたのだ、きっと。
ああいう場所へ行くと、人間は変わるものだと、いつか誰かが言っていたからかもしれない。
山本の中で、劇的に変わる、ということが死ぬということに直結するようになったのは、そう昔の話でもないはずだった。自分の周りでわりと頻繁に人が死んでいくことに気付いたのが、そう昔の話ではなかったからなのだが。
身内であったり、知人であったり、他人であったり、いろいろ、たくさん、死んでしまった。
そりゃあ、自分の周りの人間が誰も死なずに一生を過ごす人間なんてのはまずいないのだろうけれど、それにしたって死にすぎじゃあなかろうかと山本は思うのである。人間五十年、なんてのはもう昔の話になっていて、そうでないにしろ自分だってまだこの世に生まれ落ちてからたったの20と数年しか経っていないのだというのに、人が死ぬことだけは随分と多く経験している。
自分が変わった日、というのがあったのに違いなかった。
それはもしかすると、誰かが死んだ日だったのかもしれない。
誰かが死んだから自分が変わった日なのだろうか。
自分が変わったから誰かが死んだ日なのだろうか。
劇的に変わったから死んだのか、死んだから劇的に変わったのか、自分がまだ死んでいない山本にはどうも区別の付けようがなかったのだが、自分の関わった誰かが死んだことで自分は劇的に変わり、自分が劇的に変わったことで自分の関わった誰かが死ぬことになったのならば、つまるところそれらはすべて繋がっていて、どちらが先にあったとしても結局は同じことであり、要するに区別も何もつけようがないということになってしまうような気がした。
死とはすなわち劇的な変化であり、劇的な変化とはすなわち死である。
酷い話だと、山本は思った。酷いけれどしかし、不思議と違和感はなかった。
納得、できたのだ。残念なことに。
そういうわけで、山本にとって死ぬことと劇的に変わることとは同じことだったのだ。
だからあの日に、光を背負った彼を見て、この人は近いうちに死ぬんじゃなかろうかと、山本にはそう思えて仕方がなかったのだ。
寒いな、だとか。そういう事を口にしながら、雲海の向こうから射してくる光を背中へいっぱいに浴びていた彼は、どうしたって彼岸の人に見えたのだ。彼岸へ行く人のように見えたのだ。
空気の薄い場所へわざわざ時間と労力をかけて登ること、それにどんな意義があるのかなどはそれこそ人それぞれなのだが、たぶんあの時の彼は十分に有意義な時間を感じていたのだろうと山本は思う。立場上、忙殺されがちだった彼はあの時久しぶりに、少なくとも山本が知っている限りではとても久しぶりに、ぼんやりと遠くを見つめる程度の余裕が生まれていたのだ。
輝く来迎に背を向けて、ただただぼんやりと。
どこを見ているのかと、山本は聞かなかった。
どこを見ているのかを、山本は知りたくなかった。
知るのが、怖かった。
自分に教えたら、彼がいつかそこへ行ってしまう気がした。
彼がぼんやりと眺めていた遠く、それがいったいどこなのか、彼に聞くことをしなかった山本はそれを全く知らないはずだったのだけれど、しかし彼に聞かずともとてもよく知っている場所のような気がしてならなくて、けれども知っているからといって安心などは全くできず、むしろ怖いくらいだったから、赤い日の光に背を向けている彼の隣に立って、ずっと黙っていた。
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