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なまもののさけび

とりあえずつらつらとかきつらねます

05.30.01:46
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  • 05/30/01:46

05.06.21:20
隙間風とチャルメラ


鬱屈とした哲恭。弱り気味の委員長。

昨日アップしようとして出来なかったんだけどもこれ全然めでたくも何ともないからアップしなくて正解だったなといまさらながらに思いました。



拍手[1回]



「体にいい泣き方って、何」
 何の前触れもなく唐突にこんな質問をぶつけられた人間の気持ちにもなってみて欲しい、という儚い願いを胸にそっと仕舞い込みながら、草壁哲矢は旧式アイロンのスイッチを入れた。かれこれ20年近くその使命を全うし続けている老兵は、近頃めっきりエンジンのかかりが鈍くなり、こうしてコンセントを軽く押さえてやりながらスイッチを長押ししないと思うように動いてくれない。目の前でだらしなく脚を崩して縁側の柱に凭れかかっている彼の人はそんなことなど勿論知らないだろうし、知る必要もない。草壁が知っていれば用は足りるのである。
「体にいい泣き方、なんてものがあるんですかい」
「知らないから聞いているんだよ」
 不機嫌、とまではいかないものの、睫毛の先にちらつく鬱陶しい何かを振い落とそうとしているかのように数回目を瞬いた彼の人は、いつもどおりに気怠げな空気をまといつつ、いつも以上にその身の重さ、重力引力その他諸々に縛られた身の重さ魂の質量を嘆いているようにも見えた。見えるだけで、実際のところはわからない。全く違うかもしれない。少なくとも草壁であれば身の重さ云々を嘆く前に肩凝り腰痛頭痛体力の衰え云々を嘆きたいところで、しかしそうした新しい方向性を考えてみたところでその項目のどれも彼の人には適用される気がしないのもまた事実である。
「声を出さないで泣くのは体にわるいと聞いてね」
 情報ソースがどこなのか気になる話だ、と思うがすぐに、そんなことはわからない場合が多いのがいつのも調子であったと思い直し、知るのを諦めた。
「体にわるい泣き方があるのなら、体にいい泣き方もあるのが道理だろう」
 成程そう考えることはいたって自然かもしれないがしかしその体にわるい泣き方とやらにそもそも信憑性があるのかどうかがかなり疑わしいのではないかと草壁は思ったが、一度言いだした言葉は余程のことがない限り撤回も修正もしない彼の人にそんな疑問をぶつけたところで結果は目に見えている。こちらが血煙に沈んでお仕舞いだ。
 恐らく彼の人は自分に立派な意見など求めていないだろうと長年の付き合いから生まれた第六感のようなもので判断した草壁は、仰る通りで、とだけ答えた。その一言は危うく見えながらも極めて的確で、用意されていたであろう少々歪な回答欄にすっぽりと収まったらしく、先程からの態度を微塵も改める様子のない彼の人を微動だにさせぬままにことを済ませた。
 温まってきたアイロンを持ち上げて白いシャツの上へ滑らせ皺を駆逐しながら、アイロン台の向こうに見える着流しから無防備にはみだしている右脚の白さに視界を占拠されまいとして、ただ黙々と、見ようによっては紫にも青にも見える白いシャツ、その袖を平らに平らに更地にする作業に没頭した。自分が今やるべきはこのシャツ、土地で言えばこの白さ加減からおそらく雪国だろう、そこに蔓延る皺を残らず駆逐して、平定した土地をまとめて上司に献上することである。草壁はそう考えた。没頭するにはこうして少し現実を突き放すのがよい。

 シャツを3枚平定し終えたあたりで、発熱する闘争心を失ってきたアイロンを台座に戻した。経験豊かな老兵には残念なことに持久力がない。人間年齢に換算すればおそらく相当な高齢であろうこの精密機械をこのまま死ぬまで使役し続けるのが吉か、見切りをつけて足腰立たなくなる前に引退させるが吉か、つらつらと草壁は考えていたがしかしどちらにしろこの老齢の精鋭の未来には死しか待ち受けていないのだと考えると、ならば最期まで使命を全うさせてやるがよかろうと、人間のエゴという常識がさりげなく肩を貸してきた。壊れるまで使い続けるのがアイロンにとっても幸せだということだ。もしもこれが人間であったらそういうわけには勿論いかず、死ぬまで酷使し続けるなど非人道的だと罵られるのが道理であって、だからやっぱり完全に擬人化してモノを考えることなどできないんだろうなあとどうでもいい哲学を頭の中で展開していると、たったいま平定し終えたまっさらのシャツを横から伸びてきた白い手に残らず掻っ攫われた。十の指が布地に食い込んで、更地にまた新たな皺を幾筋か刻んだが草壁は何も言わなかった。彼の人の好きにするがいいのだ。
 眠い、と彼の人は言わなかったが、眠いのだろうと草壁は思った。白い腕の中でくしゃくしゃになった白いシャツ、今は彼の人の顔をすっかり覆っているそれが、彼の人が顔を歪める代わりに皺だらけになっているような気がした。アイロンをかけたばかりの生温かいシャツに顔を埋めたまま、彼の人は長いこと黙って立っていた。布目からすうすうと息の漏れる音がして、いつもより深いそれに合わせ細い肩が緩やかに上下した。温かく細かな水を含んだ吐息が白い更地を少しずつ冷たく湿らせていくのが、なんとなくわかった。
 やがて彼の人が支持を放棄すると共にぶらんと垂れ下がった二本の細腕から、皺を刻まれたばかりのシャツの塊が牡丹雪みたいに重たそうな顔をして彼の人の白くなめらかな足元に落ちて、小さな山地をこしらえた。二人とも黙っていた。草壁は彼の人の顔を見上げないままにシャツの塊をこちらへ引きよせて、もう一度それを畳み直した。シャツはさっきよりも温まっていたが、すぐにさっきより冷たくなった。
 シャツを畳んでいる間、彼の人の白い足が藺草を踏んで、板を踏んで、ぺたぺたと縁側へ行ってしまうのが聞こえた。立ち止まって座る音は、聞こえたかどうかよくわからない。

 畳み終えたシャツは長いこと座敷に放置されたまま、低くなった陽を浴びていた。

 彼の人は縁側からまだ帰ってこない。風邪を引くようなひとではないとよく思われるがむしろあれは風邪をこじらせて入院する程度に病弱であるのだと草壁は知っていた。しかしそのまま死なない程度には強靭だということも心得ていたし、それから心配されることを表向き嫌がるひとだということも承知していたのだが、夕餉の支度が整ったというのに呼びに行かないわけにはいくまい。そういう事情だった。
 暗くなった縁側へ黒い頭をして黒い着流しを着たものが飴みたいにぺたんと伸びて白い脛を晒している様子は、どうにも酷く頼りないものだった。御夕飯ですよと草壁が言うと、いらない、と滴るような呟きが返ってきた。十本の足指がぐにぐにと乳飲子の手指のごとく蠢くのにつられて、肌蹴た裾からはみだした白い脛が切なげに収縮するのが見えた。
草壁がそのまま黙って座っていると、彼の人はむくりと上半身を持ち上げて草壁を実に約半日ぶりに真正面から見た。それからぐんにゃりと白い腕を伸ばし草壁の肩を掴んでそれを支えにずるずると下半身を引きずりながら前進すると、肩に頭をことんと落として目を閉じた。湿り気を含んで首筋にしっとりと張り付く頬が冷たかった。
「…雨になるよ」
 ぽつりと零す。
「…しばらく寒い」
 きっと、と最後に付け加えたことに、意味があったのかどうかはわからない。
 草壁はそれきりうんともすんとも言わなくなった彼の人の痩せた体を抱き上げて、寝間へ連れて行ってやった。縁側から寝間へ行きつくまでずっと、背中には十本の細い指が浅く食い込んでいた。

 背後に雨足を感じて縁側の雨戸を閉めに行き、卓袱台の上を片付けて草壁が寝間へ戻ると、水を頂戴、と彼の人が小さく鳴いた。

 小さい茶碗に水を汲んできて渡すと、彼の人は茶碗の縁にほんの少しだけ口をつけて、水の粒を一つずつ、体の中へ押し込むかのようにゆっくりと飲んだ。少し飲んで、息をついて、また飲んだ。茶碗の底が見えるまで、たっぷり3分はかかった。草壁は布団の横へ座って、彼の人の白い喉が微かに上下するのをじっと見ていた。

 彼の人が昔よりも頻繁に笑わなくなった代わりに昔よりもよく泣くようになったことを知っているのは恐らく草壁だけで、それが声を一切発することなくただ涙をぼろぼろと零す泣き方だということを知っているのも草壁だけである筈だった。
 声を出さないで泣くということは泣いている当人ではなくそれを見ている人間の体にわるいんじゃなかろうかと、草壁は実のところ思い始めている。多分心臓に悪いんだろうと。大声を出して泣けばストレス発散になるだとかそういうありきたりな話があって、それで声を出さずに泣くと体にわるいのだという話が生まれたのだろうと草壁はいまのところ勝手に解釈しているが、勿論実際どうなのかわからないから彼の人に聞かれたときにもはっきりと返答はしなかった。だが草壁の身に覚えがある限りでは、彼の人がひとかけらの声も上げないでじっとどこか遠く、あるいは近くを見つめたまま、微動だにせず涙を零している様子というものを見ていると、正直言って寿命が縮むような気さえする。気づくと部屋の隅に丸くなったまま、縁側に寝転がったまま、廊下に突っ立ったまま、泣いていることがしばしばあって本当に心臓に悪い。彼の人は自分を心臓麻痺かなにかで殺す気でいるのかと馬鹿なことまで考えついてしまう始末である。
 大声を上げて子供のように泣いてくれた方が、まだこの人にも人間らしい部分があったのかと驚きつつも安堵するのであろう。泣き方を忘れてしまった人を見ているようで、辛かった。もしかすると彼の人のことだ、本当に忘れてしまったのかもしれない。
 忘れてしまったものを思い出そうとして、彼の人は泣いているのだろうか。それともただ無性に泣きたくなって泣くのだろうか。草壁は未だにそれがわからないでいる。


 空になった茶碗を畳の上へ置いて布団に横たわった彼の人の手は自分のよりも浅黒く指の太い手を胸に抱くように握りしめ、薄く開けた目でそれを見つめていた。
 目に見え肌で感じられる何もかもがじっとその場から動かないで、沈黙を守っていた。
 時間と、彼の人の頬の上を滑っていく小さな水滴だけが、温かさと冷たさを引きずりながら、音も立てずに少しずつ、少しずつ前進しているだけだった。



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